ど素人の軽井沢ライフ奮戦記

一念発起、軽井沢で週末を過ごすことに決めた中年夫婦のドタバタ別荘奮戦記と、時おり旅の記録。

追分の飯盛女

苔むして墓銘も読めず蝉の森
 
お粗末。
俳人というよりは廃人のようなどんぐり太郎です。
 
追分の家の近辺を散歩していたら、沿道に苔むした小さな墓碑が無造作に集まった場所がありました。
これは無縁仏に違いないと思うのでありますが、何か云われがありそうなもの。
ということで調べてみたのであります。
 
どんぐるみ家の山荘のある追分には、中山道の宿場町があります。
浅間山を望んで軽井沢、沓掛(中軽井沢)ときて、現在の国道18号か浅間サンラインと分岐するあたりが、越後へ向かう北国街道と木曽まで続く中山道に分かれる分去(わかさ)れであったことから、ここが信濃の「追分」となるわけであります。
 
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 追分の分去れ

 
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今は静かな佇まいの追分宿
 
 
追分宿の旧街道は今でこそひっそりとした佇まいでありますが、江戸時代の初期から交通の要衝として栄え、多いときで250人もの飯盛女がいたと言われています。
 
飯盛女といってもその字の通りご飯を盛り付けてくれる女性のことではありません。宿場女郎とも言いまして、旅籠屋の下級娼婦のことであります。現存する証文によれば、貧しさのために年季奉公に出された娘がほとんどであったとか。
 
寛永年間(17世紀半ば)のある証文には金子(きんす)3分(1両の4分の3)で娘が10年の年季奉公とあります。この3分は借金自体でありまして、1年に12朱の利息、返済総額は42分という高利な借金だったこともあるようです。娘を10年無償で働かせるというのがその代償でありました。
 
なお、返済できない場合は年季が20年以上に伸びると記されています。まさに身売りであります。娘どころか妻を質置きにした男もいたのだとか。ひどい話であります。 
 
明治5年の解放令で追分宿から自由になった女性が129人。それでも全盛期の半分ぐらいはいたのでありますね。
 
軽井沢、沓掛、追分にはそれぞれ飯盛女がいたのでありますが、中でも追分の飯盛女の評判がよく、70軒以上あった旅籠屋のうち飯盛女のいる宿が50軒以上。「油屋」と「大黒屋」が有名で、30人以上の飯盛女を抱える大娼館なのでありました。
 
客引きが旅人を甘い言葉で誘うと、旅の恥はかき捨とばかりに鼻の下を伸ばして旅籠屋へ。旅人だけでなく付近の若い男性も馴染みの飯盛女の所に足繁く通っていたようであります。
 
賑わいの様子は民謡にも唄われておりまして、その研究はまた日を改めて。
 
娘たちは遠く越中や越後、美濃や三河の方からこの地に売り飛ばされてきて、借金のかたに辛い仕事を耐え抜いておりました。飯盛女の揚げ代は昼間が200文、泊まりが500文。現在なら6,500円、16,000円といったところでありましょうか(注)。10万円にも満たない借金のかたにされてこれであります。
 
年季を終えても、この世界に入ったら足抜けは難しく、女たちは宿場から宿場へと流れ流れて、最期には無縁仏として葬られる悲しい運命でありました。
 
上述の墓碑はそんな無縁仏を弔うものではないかと推測するのであります。
ただ、確かめようにもその墓銘は今や苔生してまともに読むことさえできません。

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(注)蕎麦の価値から換算した1両の価値が13万円という説に基づく。その4千分の11文=32.5円。
 
 
※くるみママ追記
 
合掌。
 
 
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