追分どんぐるみ教会
永遠の迷える子羊、どんぐり太郎です。
どんぐるみ家の追分荘を最初にネット検索で見つけた時の印象はなぜか「教会みたい」でありました。
何をもってキリスト教会に見えたのか後々で考えてみますと、おそらくは庭に面した大きな窓を支える柱が十字架のように見えたからではないかと。
じっさい追分荘の光の取り入れ方には何かしら神々しいものを感じてしまうのであります。
法典たる聖書をラテン語という難解な言語に閉じ込め、神と繋がることを教会の儀式として独占した中世までのキリスト教団。
善悪の判断までも教団に委ねなければならなかった西洋の人々は、王侯貴族に至るまでただ畏れをもって神の仲介役たる教会にひれ伏していたようであります。
そうした権威を振りかざすための一種の舞台装置が教会の建物だったのでありましょう。
種々の改革を経て個々の信仰は純化されても、教化が政治に利用されてきた重い時代の産物は今なお厳然と聳え立っているのであります。
およそ教会の建物は吹き抜けが高く声は絶妙にエコーがかかるようにしてあって、咳払い一つ憚られる息苦しさにはいやでも呼吸が整うのであります。
薄暗い室内ではいろんなもののディテールが隠されて神秘的な雰囲気を醸し出しており、何かしら物陰からぬっと現れそうなそこはかとない不気味ささえ感じてしまうのでありますね。
あらゆる窓には聖書に記された象徴的な場面がステンドグラスとして描かれており、注ぐ光はすべてそうした聖者たちの恵みであるかのように神々しく映るのでありまして。
この威圧感の中で香でも焚かれて神父さんの低く通る声と重低音の効いたパイプオルガンの音色が響いた日にゃ、よほどひねくれた感性の持ち主でもなければ背筋を伸ばして福音を拝聴しようじゃないかという気になって当然であります。
サンピエトロ寺院、システィーナ礼拝堂、サンフランチェスコ教会、ノートルダム寺院。これまで世界の名だたる教会をいろいろと見てまいりましたが、みんなそういう場所でありました。
振りーこまないぞ
騙されないぞ
家族みんなの合言葉〜♪
FM軽井沢でこんなオレオレ詐欺撲滅ソングが流れておりましたが、罰当たりな不敬者のどんぐり太郎は世界のどんなに凄い教会の荘厳さにも騙されることなく心の踏み絵を踏み続けてきたのであります。
翻って我が追分荘もそういう意味では軽井沢の有難味を全身に感じるための精巧な装置であるような気がいたします。
しかし、わかってはいてもこの巧みな装置は神をも恐れぬどんぐり太郎の魂を鷲掴みにしてしまったのであります。
大きな窓から存分に取り込まれた自然の光が、高い吹き抜けの中で解放された自由な精神と融合し、この魂は大宇宙の広がりの中に柔らかく救済されていくのであります。
と、前オーナーと設計者がそこまで考えたかどうか。
いえ、後付けであれそんな解釈で、追分どんぐるみ教会の安らぎの時間に身を委ねております。
さて、迷える子羊も追分どんぐるみ教会で悔い、、ではなく食い改めるであります。
※くるみママ追記
結局、色々書いたところでどんぐり太郎も食欲に勝てず!
追分の我が家は、どんぶりラーメン協会なのでは?